01/SEP/2016 No057 TOMATINA(トマト祭り)
TOMATINA(トマト祭り)31/AUG/1026 22.000人が押し寄せ、恒例のトマト祭りが開催されました。壮絶、頭から足先までトマト漬け、使用した靴、シャツ、タオルなど全て再利用不可。
This author has yet to write their bio.Meanwhile lets just say that we are proud Barcelona Tatsujin contributed a whooping 22 entries.
TOMATINA(トマト祭り)31/AUG/1026 22.000人が押し寄せ、恒例のトマト祭りが開催されました。壮絶、頭から足先までトマト漬け、使用した靴、シャツ、タオルなど全て再利用不可。
<下の写真>一段目左から人間櫓、大鍋カタツムリ、ゆでた後の掃除。二段目更に大きい大鍋、8.00euroのメニュウー、巨大なカタツムリのオブジェ。三段目カタツムリの形をしたパン、会場の入り口、レリダの町のSEGRE(セグラ)川。 カタツムリ祭り バルセロナから車で西(内陸)に2時間ほど行ったところにレリダと言う人口13万人の小さな町がございます。この町で今年も5月21、22、23日と3日間開催され、人口13万の町に25万人(約2倍の人)が訪れ、およそ13トンのカタツムリが消費されました。 レリダのおもな産業は農業 梨、りんご、桃などのフルーツの生産そして工業。レリダの町の中をSEGRE(セグラ)川という大きな川が流れ、町の丘の上には美しいく威厳のある13世紀の旧大聖堂がそびえ立っています。 このお祭りは1980年に始められたようです。正式名称はAPLEC DEL CARGOL(アプレック デル カルゴル) と言い、 APLECと言うのは実は「お祭り」とは少し意味が違います。我々はAPLECを日常使いますがお祭りの場合には使いません。この言葉は特に宗教的または文化的な事を祝う際に使われる言葉で一定の定められた場所と言う意味があるそうです。カタツムリはスペイン全土で繁殖し消費されます。特に内陸平野であるレリダでは昔から雨のあとに多くのかたつむりがでてきました。それはこの土地の人にとって、現在のように豊富に食料を得られなかった時代、カタツムリは高タンパク低脂肪、カルシウムや鉄分を含んだ貴重な栄養源でした。どこの家庭でもカタツムリは出され、家族が集まるとき友人が来るとき、決まったようにカタツムリ料理でもてなされたそうです。 今年は103チームの同好会がカタツムリを食べ集いました。各同好会はグループ名前入り色別オリジナルT- シャツを着ます。そこで飲み物は御馳走してもらえますが食べ物(カタツムリ料理、パエーリャ、肉、魚料理、デザート。。。)は残念な事に食べる事は禁じられています。それは一般の人々(家族、友人)が作っており、保健所からの許可が下りておりません。観光客には別チケットが発行され、それを購入して大きなホールでプロが作った料理を食べます。 試食券 8€ カタツムリ料理(プラスティックのカップに山盛り入れて)+パン+アリオリソース+飲み物1杯 定食券 21€ 前菜+メイン+カタツムリ+デザート 子供料金 11€ これらのチケットは会場入り口に設置されたインフォーメションセンターで購入できます。お祭りの催し物としては、巨大なカタツムリのオブジェのパレード、子どもたちがカタツムリの衣裳を着て走るタツムリレース、カタツムリの形をしたパンが売られていたり、CASTELLS (カステェイ)と言う人間櫓などが御座います。
3月13日 バルセロナマラソンが開催されました。参加者30.000人、優勝は2時間09分31秒でエチオピアのDino Sefir選手、快晴に恵まれ最高気温14度、最低気温7度のベストコンデイションでした。
アフリカに行く前<ピグミーの森>と言う本を読みチャンスがあれば是非訪れたいと強い興味を抱いていました。ナイロビ(ケニア)に滞在して居たとき、日本人の旅行仲間からピグミーの森に流れる川から砂金が取れると聞きました。一か月くらい頑張ればマッチ箱一杯取れて、それがロンドンで10万円程で売れるそうです。急に山師根性が燃え上がってきました。目指すはイトゥリ山脈の砂金。ケニアからタンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダを通りピグミーの森へのルートを取りました。あれから36年が経過したので詳しい地名を覚えていないことをお許しください。ハッキリ覚えているのは、カンパラ(ウガンダ)でUSドルをブラックマーケットで両替(公定レートの7倍?)して、カンパラインターナシヨナルホテルに泊まり豪遊した辺りまでです。ウガンダのナショナルパーク(多分?ルウェンゾリ 国立公園)の中で直ぐ近にカバが沢山見える事を聞き、カンパラからルウェンゾリ 国立公園へ向かいました。バスは1日1便で約5時間、国立公園のバス停で降ろされ、運転手にホテルの場所を聞くと、入り口からホテルまで8kmあり、運が良ければ車が来るかも!? 国立公園の地図を見ると、確かに入り口からホテルまでかなりあります。 1時間くらい待ちましたが車が来るような気配は一向にありません。よお~し歩こう!! 車道があるので迷う事はないでしよう、ただ注意するのは木登りライオン、ライオンが木の上に潜んで、突然襲って来ます。しっかり靴を履いているので蛇もサソリも怖くありません。木の上を注意しながら小走りで辿り着きました。さすがに国立公園内のホテルなので、部屋が綺麗で眺めが素晴らしく、目の前に大きな川があり、そこにカバが沢山やってくるようです。まず、溜まった洗濯物を洗ってベランダに干し、次の洗濯物をしてると背後に生臭い殺気を感じます。振り返ると、1.5mくらいある大きなサルが洗濯物の上に座り、私の顔を見ると身震いし、オシッコをして、さらに部屋に入って来てバックパックを掴み中身を物色します。近くにあったキャンピングガスコンロ、棒、椅子などで脅してもビックリともしません。慌ててフロントの人を呼びに行くと、全然慌てず、何も武器を持たずやってきました。サルは黒い顔を見るなり飛んで逃げました。黄色人種の私は友達、アフリカ人は天敵と思っているのでしようか??。そしてカバは餌付けがしてあり、夕方の6時ころ20頭くらいやってきました。出発の日はバス停まで送ってもらいピグミーの森へと向かいました。 バスの中で如何わしいザイール人と知り合い、しばらく行動を共にすることになります。彼も盛んに砂金の話をして、砂金は国が管理しているから気おつけろ!気おつけろ!、見つかったら刑務所に入れられる。その日の夕方、イトゥリ山脈の麓町に到着、日が暮れてくると町は真っ暗、省エネで夜になると町の電源が全て消されました。見受けるのは暗いローソクの炎と焚火のあかりだけです。翌日、バスに乗って更に人里離れた森の奥へと向かい、途中でバスが掘っ建て小屋に停まります。そこはレストランで全員食事をしなければなりません。150cmに満たないピグミーがフランス語で<ボン・ジュール ムシュ>、タバコをぷかぷか吸って、顔に入れ墨をしています。それもそのはず、ザイール(コンゴ共和国)はフランス領でした。メニューは選べず、出てきた料理は肉の煮込み、肉が筋っぽくて硬いので、なんの肉か聞きましたが、言葉が通じないので分かりません。ピグミーのウエイターが私の手を引っ張って庭に連れ出し、そこに猿の毛皮がぶら下がっていて、それはサル肉煮込みでした。急に体が毛深くなるような気がしました。食事休憩から夕方まで走り、ピグミーが住む小さな部落にたどり着きました。そんな村にも円形藁葺小屋のホテルがあり、取りあえずはそこに落ち着きました。ところが水道はなし、トイレもありません。歯磨きや顔は近くの川の水、トイレはどうしよう?地元の子供に聞くと地面に開けられた丸い穴を指さします。囲いも何もありません、踏ん張って用足しを始めると、子供たちが集まりジーツと見つめています。ウンチは一旦止めて夜にトライすることにしました。懐中電灯で昼間の穴を探し踏ん張ると、なんと夜は蚊の大群が押し寄せ、あちこち刺されて痒い痒い!! 翌朝、如何わしいザイール人の先導で、砂金取りのザルを持った4人組を見つけ同行させてもらいました。男女とも腰巻をしているだけで、上半身は裸、ピグミーの女性の胸当たりに視線が移ると、素早く手で乳房を隠します。私の眼つきがいやらしいのか、ピグミー以外には見せてはいけないのか?それとも女性の本能でしようか。男性は獲物取りの吹き矢とナイフを持ち、女性が麻の食料袋を頭からひもで背中に担ぎます。この日はサルには出会えず野鳥にトライしましたが、残念ながら命中しませんでした。やっと川に到着して砂金取りの手ほどきを受け、夕方まで頑張りましたが、小さな欠片が数個取れただけでした。ピグミーの説明では、この辺りは取り尽くされて、殆ど残っていないと言われました。マッチ箱一杯の夢を諦め先に進むことに決め、イトゥリ山からキサンガニへ向かいました。
コスタリカは中米の小さな国でカリブ海と太平洋に挟まれ、緯度はハワイとマーシャル諸島の中間(赤道の少し上)にある常夏の国です。首都のSAN JOSEから太平洋に向かってバスで約2時間行ったところにプンタレナスと言うしなびた港町が御座います。何時も海風があり、ヤシの葉が風に揺られて素敵なメロデーを聞かせてくれ、桟橋から伊勢えびも釣れます。プンタレナスのペンション<SAN LUIS>に滞在して海岸で泳いでいる時、街の中心付近から凄い勢いで炎が燃え上がります。この町の家屋は木造、一旦火事になると燃え方もすごいなあ~と感心していました。突然、嫌な~予感がして通行人に火元を訪ねると、なんと燃えているのはペンション<SAN LUIS>。大急ぎでペンションに帰ると半分くらい焼け落ちていました。その日は消防署と警察の規制があり焼け跡には入れません、直ぐに家主を探しましが、正に雲隠れ。日はどんどん落ちて行き、素敵なメロディーに聞こえていたヤシの葉の音が暗いメロデイーに変りました。一瞬にして失った物はバックパック、服、靴、カメラ、お金、その他全て、残ったものは短パン、Tシャツ、ビーチサンダル、10ドル- - - -とほほ!(涙が出そう)。夜は何処で寝るか考えなくてはなりません。思い付いた事は新聞紙に包まって砂浜で寝る、学生時代に海岸でよくキャンプをしたし、ここは常夏で寒くなく雨の心配もありません。砂浜を人間型に掘り下げ、海側に砂を盛って海風を防ぎ、上から新聞を数枚被って準備OK。砂と新聞の中で明日からの行動を試行錯誤していると、新聞に物が落ちる音がします。見上げると知り合いの娼婦が小さな石を投げています。<Hei!Japones tu de SAN LUIS?>焼け出された日本人か? 娼婦にレストランに連れて行かれ野良犬のように飲んで食べさてもらい、4週間居候することになります。 翌日、焼け跡に行き泊まっていた部屋の辺りを物色すると、綺麗なカーボンになったパスポート、トラベラーズチェックが発見でき、これがトラベラーズチェック再発行の大きな助けになります。キャノンのカメラはレンズが溶けてガラスの塊、それほどの高熱の中でフィルムのパトロネだけは原型で残っていました(不思議?)。まず手持ちのお金で日本大使館に電話を入れると、パスポートの再発行に警察証明をお持ちくださいと言われ、警察に行くと、火災の証明書だから消防署に、消防署に行くと移民局に、移民局に行くと警察にとたらい回し、男泣き寸前!、もし戦争になったら最初に爆弾を落としてやろうと思いました。再度日本大使館に電話を入れ、現状を説明して助けを求めました。日本大使館から消防署に電話を入れてもらい、やっと火災証明が発行されました。当時はテレクッスの時代でパスポート再発行に2週間かかると説明が御座いました。そして次は証明書とカーボンを持ってアメックスに行き、トラベラーズチェックの再発行の手続き、しかし身分証明書を持たない者には再発行出来ないと拒否されます。ここで大事に持って行ったカーボンで何とかチェック番号が読み取れ、200ドルが臨時支給されました。残りはパスポートが発行され次第受け取れることになりました。この時ほど現金をトラベラーズチェックに替えておいてよかったと自分を褒め称えました。電話をかけるお金も無いので日本とのやり取りは時間の掛かる郵便、ここで困ったことにコスタリカには個人住所が御座いません、これは世界七不思議の一つに該当しないでしようか?! 郵便物の受け取りは郵便局内に設置されている娼婦の私書箱。日本では外務省から実家にMIYAMOTO HITOSHIの身元確認がきたそうです。この時、親父は息子が外地で亡くなったと思ったそうです。元気に生きていて火災でパスポートを無くしたことを連絡すると、何と親父が私の旅行保険を払ってくれていました。その中に火災20万円の保証があることが分かり、日本に火災証明書を送り、20万円をブラジルで受け取ることになります。娼婦が部屋に客を連れ込んだ時は、私は妹に早変わりして、シーツを被って情事が終わるまで待たなければなりません。4週間くらい経ったころパスポートとトラベラーズチェックが受け取れました。その中から日割り計算で娼婦に家賃と食事代を渡しました。お金など要らないから一緒に居てくれと言います。ここは情を断ち切って、兎に角ブラジルまで行きたいことを理解してもらい、コスタリカからパナマのサン・アンドレス島にヒコーキで飛び立ちました。そして必ずブラジルからもう一度帰って来ることも約束してしまいました。
表彰式前のイニエスタ、ネイマール、メッシ、アルベス リオネル・メッシがコングレスハウス(チューリッヒ)で2009年、2010年、2011年、2012年に続く5度目の栄冠に輝きました。 レオ・メッシ。得票率は41.3%と、2位クリスティアノ(22.7%)、3位ネイマール(7.8%)に大差をつけての受賞でした。 下記にレオ・メッシの受賞インタビューを記載いたします。 「ここへと戻ってくることは、僕にとってとても特別な瞬間です。この2年間は客席から、クリスティアノが受賞する様子を見てきましたから(冗談風に)。5度目の受賞なんて信じられませんし、子供の頃には想像もしてませんでした。僕に投票してくださった方々、チームメイトに感謝します。彼らがいなければ、この賞を得ることは不可能だったことでしょう。この賞をチーム、家族、そして世界中で僕を応援してくれている全ての人たちに捧げます。僕はフットボルに感謝しなければなりません。僕はフットボルで苦いも甘いも経験し、それによって僕は成長し学んできました。以上です。ムーチャス・グラシアス」 ヨハン・クルイフ、ミチェル・プラティニ、マルコ・バンバステン、それにクリスティアノらのバロンデオロ三度受賞者たちを、これで二つ引き離しました。 レオ・メッシは、長年の間レアル・マドリードFWクリスティアーノ・ロナウドと同賞を争ってきました。2人が現代サッカーを支配しているのは事実ですが、ロナウドよりもメッシの方が優れた選手でしよう!ロナウドがこれだけ長い間メッシと争い続けることができたのは、彼がけた違いの選手で、史上最も優れたゴールスコアラーです。しかし、メッシは史上最も優れたプレイヤーでしよう。メッシはゴール以外にもドリブルやパスでチャンスメイクに関わることができますが、ロナウドからゴールを奪ってしまうと何も残らなくなってしまいます。現在はメッシの時代で、ロナウドはそれに必死に対抗していた感が御座います。メッシがこれまで獲得してきたタイトルにそれが反映されています。メッシはクラブで26のタイトルを獲得して26回のタイトルマッチのうち24試合で得点を決めています。もちろんロナウドも多くの得点を決めてきた事は間違いありませんが、しかし彼はビッグゲームになると姿を消してしまいます。 スペイン紙『マルカ』の記事に、レアル・マドリードのクリスティアーノ・ロナウドとバルセロナのダニエウ・アウベスが滞在先のホテルで口論に発展。さらにFIFAワールドイレブンの記念撮影を行う際にも、ロナウドはメッシとネイマール、そしてアンドレス・イニエスタとはそれぞれ会話を交わし挨拶したが、ダニエウ・アウベスとだけは会話を一切しなかったと報じられています。原因は、昨年11月のクラシコ後にアウベスが「ロナウドはあまりにも主役になろうとしすぎる」の発言を指摘しています。およそ2ヶ月も前の発言ですが、ロナウド本人にとってはいまだに忘れ切れないのかもしれません。 最後に2014年ビッグチームの収入と選手の給与総額をご覧ください。 (左がチーム収入、右が選手の給与) 1位 レアル・マドリー 747億円 約360億円 2位 マンチェスター・ユナイテッド 704億円 約351億円 3位 バイエルン・ミュンヘン 663億円 約291億円 4位 バルセロナ 659億円 約331億円 5位 パリ・サンジェルマン 645億円 約314億円 6位 マンチェスター・シティ 564億円 約327億円 7位 チェルシー 528億円 約308億円 8位 アーセナル 489億円 約266億円
1981年1月にニュヨークを出てメキシコ、ホンジュラス、ガテマラ、エル・サルバドール、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ボリビア、エクアドル、ペルー、チリ、ウルグアイ、ブラジルと回り1981年8月に再びニューヨークに戻ってきました。 中南米旅行でニューヨークから持参した6.000ドルは全て使い果たしました。当時のアメリカは片道チケットでは入国出来ないと言う暗黙の了解(規則)が御座いました。ブラジルで買ったのは片道チケットだけ、そして持っていたのは1.000ドルのダブルチェックと現金200ドル。 ■ダブルチェックとは--!見せるだけのトラベーラズチェック、使えないチェックです。手持ちに1.000ドルあるときに、盗られた無くしたと警察に盗難届をだして、その盗難証明書を例えばアメリカンエクスに持って行き、新たに1.000ドルのチェックを発行してもらいます。そうすれば手持ちが2.000ドルになります。使えるのは1.000ドルだけで残りの1.000ドルをダブルチェックと呼ばれました。一か八か1.000ドルのダブルチェックとニューヨーク行き片道チケットで入国トライをしました。もしダメな場合は偽チェックでエアーチケットを買って日本に帰国する覚悟でした。入国検査でキッチリ旅行日程の説明をしました。ニューヨークでは一泊50ドルのホテルに5泊して、グレーハンドバスでロサンジェルスに行き、ロサンジェルスで数泊して、ロスからハワイ経由で日本へ帰ります。よって私は帰りのチケットを持っておらず、また手持ちの1.200ドルで十分と思われます。しばらく係官は考え込んでいましたが入国の許可をくれました。2度目のニューヨークは古巣に戻ったような気持ちで不安感は全然ありませんでした。それに中南米旅行中に知り合った日本人から泊まるところと仕事の目星は付いていました。宿は日本人たまり場<AND IN>、そして仕事は知り合いの<湘南ボーイがチーフウエイター>をしていたいろはレストランとトントン拍子に決まりました。決まったら働くだけです。相変わらず給料はゼロ、チップだけのテーブル乞食です。長い時はAM10:00~24:00まで14時間働らいたり、週に7日間働いたり、そして稼いだお金は銀行に貯金が出来ました。 ■この当時のアメリカ合衆国はツーリストでも銀行口座が持て、尚且つ利子が18%くらい付いた記憶が御座います。日銭は貯まらないと言う古い言葉もあるように、チップは仕事が終わると飲んで食べて消える毎日でした。実際精神的な疲れと肉体的な疲れで酒でも飲まなければその日が終われませんでした。そんな時ニューヨークのダウンタウン(ウオール街・証券街)の日本レストラン情報を聞きました。何でもダウンタウンのレストランは土、日曜日休み、労働時間もAM10:00~PM20:30。少し時間を作ってニューヨーク生活を楽しみたい気持ちもが芽生えたそんな折、ダウンタウンの歌舞伎レストランでウエイターを募集している口コミがありました。 ■早速面接の日取りが決まり、始めて世界の証券街<ウオール街>へ足を踏み入れました。社長は<中野 さなえ>さん。中野さんは戦争花嫁で南部の貧しい家に嫁がれたようです。そして別れて単身ニューヨークに来られ<歌舞伎レストラン>を立ち上げられました。採用は直ぐに決まり息子のように面倒をみて頂きました。まず最初はグリーンカード(永住権)を取りなさいと言う提案が御座いました。何時までも不法滞在で居る訳にもいかないので、この提案を直ぐに受け入れて、しばらく腰を据えてニューヨークに住むことを決心致しました。私のスポンサーは歌舞伎レストラン、中野さんからゲードリックと言うユダヤ人の弁護士を紹介して頂きました。ゲードリックは良く分からない大雑把な説明しかしてくれません。まずアメリカの永住権を取るには6つの申請パターンがあること、アメリカで生まれた人、親戚がいる、貢献した人、etcとあり、最後の第6セクションにアメリカが必要とする特殊技能保持者とあります。そこには日本料理板前、美容師、理容師、針、指圧などなど、彼はそこから選べと言います。それらに該当する技能を持っていないと言うと、遠回しに何か作れ!。スポンサーがレストランなので板前しかありません。私の最終学歴は写真専門学院卒です。 どうするか試行錯誤をしていると長野県伊那市の料亭<えび屋>の友達を思い出し、連絡をすると証明書を心良く承諾してくれました。送られてきたのは日本語で便せんに4行の簡単なものでした。宮本 均は何年から~何年まで間違いなくえび屋で修業をしました?!。全てうそです。それをニューヨーク日本大使館に持って行き英語に翻訳してもらい申請致しました。その時ゲードリックから運が悪いと追跡調査を受けるかも知れない、よってお互いに事実をしっかり覚えておくようにと念を押されました。幸い追跡調査はなく、1年2ヶ月後には移民局からインタビューの通知が届きました。この頃はインタビューがアメリカか日本か選べました。日本を出て5年が経つので日本を選びました。東京のアメリカ大使館で合衆国に忠誠を誓うセレモニーを行い全てが終了致しました。それから2ヶ月後にグリーンカードが郵便で送られてきました。 この後8年間ニューヨークでRICH&FAMOUSを目指して働きましたが、夢が見えず、1998年1月にニューヨークからバルセロナにやって来ます。
25/OCT CAMP NOUにてバルサVSエイバールの試合が御座いました。現在スペイン一部リーグで活躍するただ一人の日本人が乾選手です。Tatsujinは乾選手のスタメンを予想して球場に赴きました。予想通り乾選手はスタメンで出てきました。さすがに他の選手よりも頭一つ背が低かったです。下記にウオーミングアップ中の乾選手の写真をお届け致します。内容的には前半はアシストと得点に絡む良い動きがありました。特にセンタリングにタイミングを合わせたヘデイングゴールは僅かに外れただけでした。しかし後半はゲームに参加されていませんでした。生で見ていた印象はポジシヨンが良くなかったと思います。終始バルサのダニー・アルベスと隣り合わせにおられました。この辺りを見ていた監督から後半交代の指示が御座いました。まだ乾選手と他プレーヤーの信頼関係が無いと感じました。ここには言葉とフィーリングの問題もあると思われます。!!頑張れINUI選手!! エスパニヨールで半年プレイした中村 俊介選手もロッカールームの派閥に入れず、スペイン語が出来ず、他の選手との信頼関係が生まれづ、6ヶ月で日本に帰ってしまいました。バルセロナの最後の新聞の見出しは<NAKAMURA SHUNSUKE>やる気のない顔でした。 その他に前から3列目で観戦した生の印象を書いてみます。 100回のテレビ観戦よりも、やはり1回の生観戦は迫力とインパクトがありました。始めて見るネイマールの驚異的な加速、ダッシュは早いと思いませんが3歩目、4歩目からの加速はカモシカを思わせる跳躍力があり止めるのは至難の業と思われます。そしてボール扱いの柔らかい事、触る印象がなく足の風力で操る感じ、この時何故か古い柔道家<三船 久蔵の空気投げ>を思い起こしました。この能力が移籍金100億円の価値でしよう?? 次は目の前で見るルイス・スワレス。走る姿は猛牛、近くに来た時にはドスン~ドスン~と言う足音が聞こえ地響きが体に伝わってきそうでした。あの体なら超人的な空中ボレーが生まれることを納得致しました。 残念ながらメッシはケガで出場しませんでした。
ミッシェランの3星レストラン<SAN PAU> バルセロナから北に50km行ったところにSAN POL DE MARと言う町が御座います。ここにレストランSAN PAUがあり、創業者はSAN POL DE MAR生まれのカルマとトニ-です。下記の写真がカルマとトニー、SAN POL DE MARの町です。 海岸から見たSAN PAUレストランの写真、手前がガーデン、一階が厨房、二階が客席。 お勧め料理の写真 SAN PAUレストランの外観写真
PGA CATALUNYA RESORT バルセロナから北へ80km離れたところにPGA GOLF COURSEが御座います。その名の通りPGAのレイアウトを持つコースです。下記スコアカードをご覧ください。スタートテイは黒、白、黄色、茶色、青、赤と6つもあります。一般的には5.719mの黄色テイからのスタートが良いと思われます。写真のスコアカードは難易度の高いSTADIUM COURSEになります。 PGA GOLF COURSEはSTADIコース18ホールとTOURコース18ホールの合計36ホールからなります。お勧めはSTADIUMコースでしようか。コースは四方が山の囲まれ、フエアワエイの両サイドが少し盛り上がったすり鉢状になっておりプレーが楽しめます。次の写真は10、12番ホールの写真です。 場所は温泉の出るCaldes de Malavellaリゾートの近くに御座います。Caldes de Malavellaの温泉から作られる炭酸水がヨーロッパでも5回のメダルを受賞した<VICHI>です。 PGAの次にお勧め出来るのはバルセロナから60km離れた<GOLF CLUB MONTANYA>でしようか。