バルセロナでガイド歴35年の

達人Hitoshi くんが個人旅行のアドバイスをいたします。
バルセロナのオリジナル観光、バルで面白い裏話。

  • 25/jan/2015 ネギ祭り(calçotada)

Miyamoto Hitoshi 島根県生まれ

New Yorkに10年在住、中南米、アフリカを放浪して、Barcelona在住35年。

主な観光業は JTB、MIKI TRAVEL、HIS。

趣味は魚釣りとスポーツ全般、バルセロナでは自他ともに認めるスポーツNo1ガイドです。

このページの最後には<バルセロナ達人おもしろ噺>も御座います。

お客様からのコメント

5 replies
  1. Megumi Otsu says:

    11月29日にお世話になりました、大津です。
    とにかく素晴らしいガイドさん!!
    市内観光の案内は勿論のこと, サッカーの情報の多さには脱帽です(笑) 急な観戦希望も笑顔で快くチケット手配をしてくれるので助かりました(笑)
    Tatsujin Hitoshi-kunと一緒のスペイン!! 本当に楽しかったです♪有り難うございました。

    Reply
    • Barcelona Tatsujin says:

      Tatujin Hitoshiくんもとても楽しいバルセロナ観光でした。またお会いできる日を楽しみにしています。

      Reply
  2. yumi says:

    宮本さんに初めてお会いしたのはバルセロナオリンピック。某テレビ局の取材でコーディネーターをお願いしました。とにかくフットワークが良くてこちらの如何なる要望にも直ぐ対応して下さり流石にプロと思いました。その後もバルセロナに行く度に仕事をお願いしています。
    一言でいうと一緒にいて笑顔になれる方です。
    これからも頑張ってください。

    Reply
  3. kumiko says:

    このたびは 本当にありがとうございました。バルセロナのことは、達人HIYOSHI君がいてくだされば、なんとでもなる!! そんな頼もしいガイドさんです。
     とにかく、観光、レストラン、観戦チケットのこと、なんでもスペシャリストの対応に、、また、お客様の気持ちを
    いつも思ってくださる、、そんなやさしいHITOSHI君ですね。
     次回も、ぜひよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
     

    Reply
    • Barcelona Tatsujin says:

      Kumikoさんには、バルセロナフィギュアスケートのチケット争奪戦に負けずVIP BOX席をご手配出来てた事が光栄です。

      Reply

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達人おもしろ噺

おもしろ噺 イトゥリ山脈の砂金

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アフリカに行く前<ピグミーの森>と言う本を読みチャンスがあれば是非訪れたいと強い興味を抱いていました。ナイロビ(ケニア)に滞在して居たとき、日本人の旅行仲間からピグミーの森に流れる川から砂金が取れると聞きました。一か月くらい頑張ればマッチ箱一杯取れて、それがロンドンで10万円程で売れるそうです。急に山師根性が燃え上がってきました。目指すはイトゥリ山脈の砂金。ケニアからタンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダを通りピグミーの森へのルートを取りました。あれから36年が経過したので詳しい地名を覚えていないことをお許しください。ハッキリ覚えているのは、カンパラ(ウガンダ)でUSドルをブラックマーケットで両替(公定レートの7倍?)して、カンパラインターナシヨナルホテルに泊まり豪遊した辺りまでです。ウガンダのナショナルパーク(多分?ルウェンゾリ 国立公園)の中で直ぐ近にカバが沢山見える事を聞き、カンパラからルウェンゾリ 国立公園へ向かいました。バスは1日1便で約5時間、国立公園のバス停で降ろされ、運転手にホテルの場所を聞くと、入り口からホテルまで8kmあり、運が良ければ車が来るかも!? 国立公園の地図を見ると、確かに入り口からホテルまでかなりあります。 1時間くらい待ちましたが車が来るような気配は一向にありません。よお~し歩こう!! 車道があるので迷う事はないでしよう、ただ注意するのは木登りライオン、ライオンが木の上に潜んで、突然襲って来ます。しっかり靴を履いているので蛇もサソリも怖くありません。木の上を注意しながら小走りで辿り着きました。さすがに国立公園内のホテルなので、部屋が綺麗で眺めが素晴らしく、目の前に大きな川があり、そこにカバが沢山やってくるようです。まず、溜まった洗濯物を洗ってベランダに干し、次の洗濯物をしてると背後に生臭い殺気を感じます。振り返ると、1.5mくらいある大きなサルが洗濯物の上に座り、私の顔を見ると身震いし、オシッコをして、さらに部屋に入って来てバックパックを掴み中身を物色します。近くにあったキャンピングガスコンロ、棒、椅子などで脅してもビックリともしません。慌ててフロントの人を呼びに行くと、全然慌てず、何も武器を持たずやってきました。サルは黒い顔を見るなり飛んで逃げました。黄色人種の私は友達、アフリカ人は天敵と思っているのでしようか??。そしてカバは餌付けがしてあり、夕方の6時ころ20頭くらいやってきました。出発の日はバス停まで送ってもらいピグミーの森へと向かいました。

バスの中で如何わしいザイール人と知り合い、しばらく行動を共にすることになります。彼も盛んに砂金の話をして、砂金は国が管理しているから気おつけろ!気おつけろ!、見つかったら刑務所に入れられる。その日の夕方、イトゥリ山脈の麓町に到着、日が暮れてくると町は真っ暗、省エネで夜になると町の電源が全て消されました。見受けるのは暗いローソクの炎と焚火のあかりだけです。翌日、バスに乗って更に人里離れた森の奥へと向かい、途中でバスが掘っ建て小屋に停まります。そこはレストランで全員食事をしなければなりません。150cmに満たないピグミーがフランス語で<ボン・ジュール ムシュ>、タバコをぷかぷか吸って、顔に入れ墨をしています。それもそのはず、ザイール(コンゴ共和国)はフランス領でした。メニューは選べず、出てきた料理は肉の煮込み、肉が筋っぽくて硬いので、なんの肉か聞きましたが、言葉が通じないので分かりません。ピグミーのウエイターが私の手を引っ張って庭に連れ出し、そこに猿の毛皮がぶら下がっていて、それはサル肉煮込みでした。急に体が毛深くなるような気がしました。食事休憩から夕方まで走り、ピグミーが住む小さな部落にたどり着きました。そんな村にも円形藁葺小屋のホテルがあり、取りあえずはそこに落ち着きました。ところが水道はなし、トイレもありません。歯磨きや顔は近くの川の水、トイレはどうしよう?地元の子供に聞くと地面に開けられた丸い穴を指さします。囲いも何もありません、踏ん張って用足しを始めると、子供たちが集まりジーツと見つめています。ウンチは一旦止めて夜にトライすることにしました。懐中電灯で昼間の穴を探し踏ん張ると、なんと夜は蚊の大群が押し寄せ、あちこち刺されて痒い痒い!! 翌朝、如何わしいザイール人の先導で、砂金取りのザルを持った4人組を見つけ同行させてもらいました。男女とも腰巻をしているだけで、上半身は裸、ピグミーの女性の胸当たりに視線が移ると、素早く手で乳房を隠します。私の眼つきがいやらしいのか、ピグミー以外には見せてはいけないのか?それとも女性の本能でしようか。男性は獲物取りの吹き矢とナイフを持ち、女性が麻の食料袋を頭からひもで背中に担ぎます。この日はサルには出会えず野鳥にトライしましたが、残念ながら命中しませんでした。やっと川に到着して砂金取りの手ほどきを受け、夕方まで頑張りましたが、小さな欠片が数個取れただけでした。ピグミーの説明では、この辺りは取り尽くされて、殆ど残っていないと言われました。マッチ箱一杯の夢を諦め先に進むことに決め、イトゥリ山からキサンガニへ向かいました。

おもしろ噺 コスタリカで宿が炎上

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コスタリカは中米の小さな国でカリブ海と太平洋に挟まれ、緯度はハワイとマーシャル諸島の中間(赤道の少し上)にある常夏の国です。首都のSAN JOSEから太平洋に向かってバスで約2時間行ったところにプンタレナスと言うしなびた港町が御座います。何時も海風があり、ヤシの葉が風に揺られて素敵なメロデーを聞かせてくれ、桟橋から伊勢えびも釣れます。プンタレナスのペンション<SAN LUIS>に滞在して海岸で泳いでいる時、街の中心付近から凄い勢いで炎が燃え上がります。この町の家屋は木造、一旦火事になると燃え方もすごいなあ~と感心していました。突然、嫌な~予感がして通行人に火元を訪ねると、なんと燃えているのはペンション<SAN LUIS>。大急ぎでペンションに帰ると半分くらい焼け落ちていました。その日は消防署と警察の規制があり焼け跡には入れません、直ぐに家主を探しましが、正に雲隠れ。日はどんどん落ちて行き、素敵なメロディーに聞こえていたヤシの葉の音が暗いメロデイーに変りました。一瞬にして失った物はバックパック、服、靴、カメラ、お金、その他全て、残ったものは短パン、Tシャツ、ビーチサンダル、10ドル- - - -とほほ!(涙が出そう)。夜は何処で寝るか考えなくてはなりません。思い付いた事は新聞紙に包まって砂浜で寝る、学生時代に海岸でよくキャンプをしたし、ここは常夏で寒くなく雨の心配もありません。砂浜を人間型に掘り下げ、海側に砂を盛って海風を防ぎ、上から新聞を数枚被って準備OK。砂と新聞の中で明日からの行動を試行錯誤していると、新聞に物が落ちる音がします。見上げると知り合いの娼婦が小さな石を投げています。<Hei!Japones tu de SAN LUIS?>焼け出された日本人か? 娼婦にレストランに連れて行かれ野良犬のように飲んで食べさてもらい、4週間居候することになります。

翌日、焼け跡に行き泊まっていた部屋の辺りを物色すると、綺麗なカーボンになったパスポート、トラベラーズチェックが発見でき、これがトラベラーズチェック再発行の大きな助けになります。キャノンのカメラはレンズが溶けてガラスの塊、それほどの高熱の中でフィルムのパトロネだけは原型で残っていました(不思議?)。まず手持ちのお金で日本大使館に電話を入れると、パスポートの再発行に警察証明をお持ちくださいと言われ、警察に行くと、火災の証明書だから消防署に、消防署に行くと移民局に、移民局に行くと警察にとたらい回し、男泣き寸前!、もし戦争になったら最初に爆弾を落としてやろうと思いました。再度日本大使館に電話を入れ、現状を説明して助けを求めました。日本大使館から消防署に電話を入れてもらい、やっと火災証明が発行されました。当時はテレクッスの時代でパスポート再発行に2週間かかると説明が御座いました。そして次は証明書とカーボンを持ってアメックスに行き、トラベラーズチェックの再発行の手続き、しかし身分証明書を持たない者には再発行出来ないと拒否されます。ここで大事に持って行ったカーボンで何とかチェック番号が読み取れ、200ドルが臨時支給されました。残りはパスポートが発行され次第受け取れることになりました。この時ほど現金をトラベラーズチェックに替えておいてよかったと自分を褒め称えました。電話をかけるお金も無いので日本とのやり取りは時間の掛かる郵便、ここで困ったことにコスタリカには個人住所が御座いません、これは世界七不思議の一つに該当しないでしようか?! 郵便物の受け取りは郵便局内に設置されている娼婦の私書箱。日本では外務省から実家にMIYAMOTO HITOSHIの身元確認がきたそうです。この時、親父は息子が外地で亡くなったと思ったそうです。元気に生きていて火災でパスポートを無くしたことを連絡すると、何と親父が私の旅行保険を払ってくれていました。その中に火災20万円の保証があることが分かり、日本に火災証明書を送り、20万円をブラジルで受け取ることになります。娼婦が部屋に客を連れ込んだ時は、私は妹に早変わりして、シーツを被って情事が終わるまで待たなければなりません。4週間くらい経ったころパスポートとトラベラーズチェックが受け取れました。その中から日割り計算で娼婦に家賃と食事代を渡しました。お金など要らないから一緒に居てくれと言います。ここは情を断ち切って、兎に角ブラジルまで行きたいことを理解してもらい、コスタリカからパナマのサン・アンドレス島にヒコーキで飛び立ちました。そして必ずブラジルからもう一度帰って来ることも約束してしまいました。

おもしろ噺 再びニューヨーク

1981年1月にニュヨークを出てメキシコ、ホンジュラス、ガテマラ、エル・サルバドール、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ボリビア、エクアドル、ペルー、チリ、ウルグアイ、ブラジルと回り1981年8月に再びニューヨークに戻ってきました。

中南米旅行でニューヨークから持参した6.000ドルは全て使い果たしました。当時のアメリカは片道チケットでは入国出来ないと言う暗黙の了解(規則)が御座いました。ブラジルで買ったのは片道チケットだけ、そして持っていたのは1.000ドルのダブルチェックと現金200ドル。

ダブルチェックとは--!見せるだけのトラベーラズチェック、使えないチェックです。手持ちに1.000ドルあるときに、盗られた無くしたと警察に盗難届をだして、その盗難証明書を例えばアメリカンエクスに持って行き、新たに1.000ドルのチェックを発行してもらいます。そうすれば手持ちが2.000ドルになります。使えるのは1.000ドルだけで残りの1.000ドルをダブルチェックと呼ばれました。一か八か1.000ドルのダブルチェックとニューヨーク行き片道チケットで入国トライをしました。もしダメな場合は偽チェックでエアーチケットを買って日本に帰国する覚悟でした。入国検査でキッチリ旅行日程の説明をしました。ニューヨークでは一泊50ドルのホテルに5泊して、グレーハンドバスでロサンジェルスに行き、ロサンジェルスで数泊して、ロスからハワイ経由で日本へ帰ります。よって私は帰りのチケットを持っておらず、また手持ちの1.200ドルで十分と思われます。しばらく係官は考え込んでいましたが入国の許可をくれました。2度目のニューヨークは古巣に戻ったような気持ちで不安感は全然ありませんでした。それに中南米旅行中に知り合った日本人から泊まるところと仕事の目星は付いていました。宿は日本人たまり場<AND IN>、そして仕事は知り合いの<湘南ボーイがチーフウエイター>をしていたいろはレストランとトントン拍子に決まりました。決まったら働くだけです。相変わらず給料はゼロ、チップだけのテーブル乞食です。長い時はAM10:00~24:00まで14時間働らいたり、週に7日間働いたり、そして稼いだお金は銀行に貯金が出来ました。

この当時のアメリカ合衆国はツーリストでも銀行口座が持て、尚且つ利子が18%くらい付いた記憶が御座います。日銭は貯まらないと言う古い言葉もあるように、チップは仕事が終わると飲んで食べて消える毎日でした。実際精神的な疲れと肉体的な疲れで酒でも飲まなければその日が終われませんでした。そんな時ニューヨークのダウンタウン(ウオール街・証券街)の日本レストラン情報を聞きました。何でもダウンタウンのレストランは土、日曜日休み、労働時間もAM10:00~PM20:30。少し時間を作ってニューヨーク生活を楽しみたい気持ちもが芽生えたそんな折、ダウンタウンの歌舞伎レストランでウエイターを募集している口コミがありました。

早速面接の日取りが決まり、始めて世界の証券街<ウオール街>へ足を踏み入れました。社長は<中野 さなえ>さん。中野さんは戦争花嫁で南部の貧しい家に嫁がれたようです。そして別れて単身ニューヨークに来られ<歌舞伎レストラン>を立ち上げられました。採用は直ぐに決まり息子のように面倒をみて頂きました。まず最初はグリーンカード(永住権)を取りなさいと言う提案が御座いました。何時までも不法滞在で居る訳にもいかないので、この提案を直ぐに受け入れて、しばらく腰を据えてニューヨークに住むことを決心致しました。私のスポンサーは歌舞伎レストラン、中野さんからゲードリックと言うユダヤ人の弁護士を紹介して頂きました。ゲードリックは良く分からない大雑把な説明しかしてくれません。まずアメリカの永住権を取るには6つの申請パターンがあること、アメリカで生まれた人、親戚がいる、貢献した人、etcとあり、最後の第6セクションにアメリカが必要とする特殊技能保持者とあります。そこには日本料理板前、美容師、理容師、針、指圧などなど、彼はそこから選べと言います。それらに該当する技能を持っていないと言うと、遠回しに何か作れ!。スポンサーがレストランなので板前しかありません。私の最終学歴は写真専門学院卒です。

どうするか試行錯誤をしていると長野県伊那市の料亭<えび屋>の友達を思い出し、連絡をすると証明書を心良く承諾してくれました。送られてきたのは日本語で便せんに4行の簡単なものでした。宮本 均は何年から~何年まで間違いなくえび屋で修業をしました?!。全てうそです。それをニューヨーク日本大使館に持って行き英語に翻訳してもらい申請致しました。その時ゲードリックから運が悪いと追跡調査を受けるかも知れない、よってお互いに事実をしっかり覚えておくようにと念を押されました。幸い追跡調査はなく、1年2ヶ月後には移民局からインタビューの通知が届きました。この頃はインタビューがアメリカか日本か選べました。日本を出て5年が経つので日本を選びました。東京のアメリカ大使館で合衆国に忠誠を誓うセレモニーを行い全てが終了致しました。それから2ヶ月後にグリーンカードが郵便で送られてきました。

この後8年間ニューヨークでRICH&FAMOUSを目指して働きましたが、夢が見えず、1998年1月にニューヨークからバルセロナにやって来ます。